花輪ヶ丘病院についてAbout Hanawagaoka-hospital
成春会の嚆矢たる花輪ヶ丘病院は50周年をもって平成20年8月31日付け廃院届けを出しております。その機能及び支えてきたスタッフは成春会各医療機関に分散移動して今日も地域第一線医療機関として活動しております。以下、開設より閉院までの経緯概要をまとめております。
戦後、国民病として国をあげて結核対策に取り組むさなか、昭和28年6月に船橋宮本町の通称花輪ヶ丘の地に、花輪ヶ丘診療所を開設しております。この診療所を昭和31年に結核主体の病院として発展させ、翌昭和32年には医療法人を設立致しました。以後、「花輪ヶ丘病院」として基準給食、基準寝具取得とサービス基準を向上させながら運営をしてきましたが、戦後復興と共に環境水準や医療水準の高まりにより 結核は撲滅されつつありました。
このため昭和34年より順天堂大学医学部卒業医師の共同経営法人に移行、一般急性病院として昭和39年新たなスタートを切りました。更に、公益的経営に徹し充実せしめるべく、昭和39年に法制化された特定医療法人格の取得を理事会で決定し、出資持分の放棄を実行致しました。以降、周辺の土地所有者のご理解と協力により、譲受ないし賃借により敷地を拡大確保し、昭和43年には鉄筋4階建ての新館建築をし101床の一般病院となりました。
昭和48年、結核患者の減少と一般患者に対する診療設備の充実を図るため(結核病床(23床)を廃止して一般病床に転換する際に、透析装置の導入が検討され試験的実施をおこなっております。昭和50年には人工透析設備3台設置(計4台)後、腎臓に関する更生医療を申請し認可を受けました。その後透析装置を徐々に拡大し、昭和53年には透析センターを開業するまで充実を図っております。
昭和61年には予防・早期発見早期治療ニーズの高まりの中、患者治療と健常者の健診の場の完全分離をとの要請を踏まえ、人間ドック・健診専門施設として花輪クリニックを開設いたしました。
花輪ヶ丘病院は、平成5年より電気設備等基幹機能の再整備を段階的に実施し、病床減少となりますが木造棟を取り壊し、透析設備の拡大を図り、透析治療を中心とした慢性期病院として経営的安定を確保してまいりました。
「構造改革無くして景気回復無し」とのキャッチフレーズで国民的人気を得、リーダーとなった小泉内閣総理大臣は、財政再建のため「聖域なき改革」をスローガンに平成14年診療報酬のマイナス改定を断行致しました。既に、相次ぐ薬価切り下げ、安全管理、医療廃棄物他管理コストの増嵩は病院経営を圧迫しており、医療機関はまさに存続を掛けて運営コストの圧縮と合理化に取り組んでまいりました。当会も無論コスト圧縮に取り組みましたが、むしろ経営の支柱である透析と健診をより特化させ拡大することとしました。この決定に基づき、50万市民を突破し中核市となった船橋市の中心地、JR船橋駅南口の14階建て再開発ビル「船橋フェイスビル」8階に、「人間ドック・健診専門施設」と「透析サテライト」を擁す花輪クリニックを平成15年5月新装移設開設致しました。
築50年となり漏水漏電隙間風など建築的問題が次々顕現しながら、第一種住居専用地域指定の関連で 病院として建て直しどころか大修繕も出来ない花輪ヶ丘病院は50年の歴史の幕をおろして、経営的に成春会を支えるまで発展した透析機能を継承し再新生させることとなりました。
法人設立50周年にあたる平成19年9月 急性期慢性期医療機能と一体的連携のはかれる北習志野花輪病院隣接地において自家発電装置と自家水道設備を備え万が一の災害にも安定した療養が提供できる最新機器最新システムで良好な治療環境をもった透析センターとして、開設致しました。
これにより、昭和57年に急性期入院療養の移転を行い、平成19年慢性期医療としての透析医療の移転をすることで、花輪ヶ丘病院病棟機能の北習志野への移転が完了したと考えます。
又、花輪ヶ丘病院外来機能は、通勤通学利用者にも配慮したクリニックを基本とすべきと考えました。ハート法との関連で公共輸送機関は車椅子利用が可能となるよう改築されておりますが、北習志野駅舎改築とベデストリアンデッキで結ぶ駅前3階建てビルに平成21年2月花輪病院附属駅前クリニックとして開設しております。これにより、花輪ヶ丘病院機能は総て継承移転したと考えております。